ゲスト

2010.1.05

トップアスリートインタビュー 第1回高岡寿成さん Part2

Part1はこちらから

●野球少年が陸上に目覚めたきっかけ

――子どもの頃は野球がお好きだったとか。陸上競技に目覚めたきっかけは何だったんですか?

少年野球をやってましたが、必ずしも好きだから上手というわけではないでしょ(笑)? それで、小学校5年生と6年生の時に町の小さな陸上大会で優勝したんです。子どもですから、勝てる方が楽しい。町報に名前が載って、それが自分にとってはすごく嬉しくて。それがきっかけですよね。ただ、その時は嬉しかったんですけど、だんだんと地区が広がっていくに連れて一番ではなくなってきて。決して自分は速くはないんだと思い知らされました(笑)。また、中学校時代の恩師、戸田孝一先生との出会いも大きかったですね。トレーニングの仕方を含めて、いろいろと専門的なことを教わって。「ウォーミングアップは何のために必要か?」など1から10まで全部教えてくれたんです。戸田先生もインターハイで2位になったり、大学の時にインカレに出たりした人で。長距離ではなくハードルだったんですけど、実績があった人なんですよ。厳しくいろんなことを教えてもらいましたね。

――高岡さんは「遅咲き」のタイプですよね。頭角をあらわしたのは大学時代に入ってからでした。  

そうですね。高校の時はとくにケガが多くて。さしたる実績もなかったので、関東の大学に入って箱根駅伝に挑戦しようとも思わなかったんですよ。その頃は20キロを走れる選手だなんて、自分でも思ってませんでしたし。なので関西の大学(龍谷大学)へ進学したんです。
実は高校の頃や大学の最初の頃は、練習をさぼるなんてこともあったんです。ですが大学の途中から、それって意味がないことだと思い始めて。例えば1時間走ってる中で、20分さぼってるとしたら、さぼってる20分はムダじゃないですか? どうせやるんだったら思い切りやった方がいいと。そこからですかね、どういう練習をやれば効率よく結果が出るのか、と考え始めたのは。
また、関西にいたことで、関東の学生のように長い距離を走らなくて済んだのも幸いでした。当時の先生がそういう考え方で、せっかく関西にいるんだからスピード練習ばかりをやらせてくれたんですね。その練習のおかげでトラック競技でもスピードがつき、ラストスパートを効率的にかけられるようになって記録が伸びたんです。それが面白くて、さらに頑張ることができました。
それで大学4年生の時に5000mで日本記録を樹立して……。誰よりもぼく自身が一番驚きました(笑)。まぐれと言えるぐらいの記録でしたから。でも、あの時から「オリンピックに出たい」っていう欲が出て。ほかにもマラソンをやりたいとか、日本一になりたいとか思うようになったんです。
それからはアジア大会に出たり、世界選手権に出たり、オリンピックに出たりといった具合で物事が進みました。昔は夢として持てなかった目標を具体的に狙えるようになってからは、目標に到達するまでが早かったですね。

●狙い定めて生み出すことができない「新しい記録」

――現在は3000m、10000m、フルマラソンの国内記録を保持されていますが、これらの記録は目標に突き進んだ結果に得られたものでしょうか?  

はい、そこは現役の時は非常にこだわってたポイントです。記録を出すために海外を転戦していたほどですから。なので結果を残せたのは嬉しいですね。ただ、学生の時に出した記録を会社に入ってきっちり追い込んで練習しても抜けないというプレッシャーはありましたけど。その時に感じたのは、「狙って記録を出すことの難しさ」です。マラソンでも、本当に狙って優勝できる人って少ないんですよね。狙ってはいないのに、優勝できたという人がほとんどだと思います。もういっぺん勝ってみよう、もういっぺん記録を出してみようと思って走るとなかなか難しい。
ぼくはかつて5000mの記録も持っていたんですが、自分の中では5000mの方が抜かれにくい記録だと思ってました。一方で、10000mは今でも抜かれそうな記録。でも結果的には5000mが先に抜かれてしまった。その理由は、簡単に抜かれるようなタイムじゃなかったからだと思うんです。でも10000mは目標にしやすいから、みんなが記録を狙ってくる。ただ、狙ってるからこそ抜けない。あと3秒とか、あと5秒とか、近づいてきてる選手はいるんですけどね。
だからこそ、記録を狙って出せる人というのが本物。ハイレ(・ゲブレセラシェ、フルマラソンの世界記録保持者)とかは狙って出してると思います。でもそれに続くケニア人なんかは感覚なんじゃないですかね。

●オリンピックという名の魔力

――フルマラソンデビューは30歳を超えてからの、2001年の福岡国際マラソンでした。その時点でトラック競技からマラソンにステップアップしようと思われた動機は何でしょうか?  

ぼくの中で、計画のスパンは4年なんです。それはオリンピック単位なんですね。30歳の時がシドニーオリンピックだったので、それ以降にマラソン転向とは考えていました。マラソンに対しては憧れを持ってましたし、マラソンをやりたいがために、伊藤監督(現カネボウ陸上競技部総監督)の下でやりたいと思ったので。
若い時はケガが多くて、マラソン用の練習が十分にできなかったんです。むしろトラック競技でスピードを養っておくことが、将来的に高速化していくと言われていたマラソンに対応できる方法だと思ってました。今でこそ、(2時間)3分、4分、5分が当たり前の時代ですが、昔は5分台後半が世界記録でしたから。その当時から監督は5分、6分台で走れるようにしなくてはいけないと教えてくれました。その期待には結果的に応えられたんじゃないかなと思います。

――アトランタ、シドニーと2度のオリンピックを経験されましたが、結果的にトラック競技だけの参加となりましたね。  

マラソンでは縁がなかったんでしょうね。その点も、選考予選で「狙って勝つ」難しさを感じた部分でした。それなりの記録は出していたので、多くの方から「勝てる」とも言われていたんですが。そういった声を、どこか勝手にプレッシャーに感じた部分もあったかもしれません。
初めてアトランタに行った時は、雰囲気に飲まれてしまいました。やっぱり、オリンピックは注目度が違いますからね。結局は単独の陸上大会と一緒なんですが、そう思わせる部分があるじゃないですか。だからシドニーの時は、オリンピックの前に10回ぐらい現地に行ってるんです。それも数日間じゃなくて、1カ月とかわりと長めにね。日本では当たり前のことでも、海外では不自由になったりする。日本料理屋があちこちにあるわけでもないし。おかげで本番に出た時は、街の雰囲気も分かっていたし、まるで東京に試合に行くような感覚でした(笑)。だからこそシドニーでは結果が出せたんだと思います(1000mで7位入賞)。
アテネの時も絶対に行きたいという気持ちを明確にするために、ほぼオリンピックの開催日程と同じ行程で、前年の夏に現地に行ったんです。ちょっとコースを走ってみたりとか……。まあ、工事中が多かったんですけど(笑)。そこまで計画的にやってたんですが、残念でした。

――高岡さんの座右の銘は?

「夢見ることはできること」ですかね。95年頃、頑張れるんですけど、練習しても上手く行かない時期があったんです。次の年にオリンピックが控えているというのに全くダメで。その時期は、本当にあきらめていた部分が多かった気がします。そんな時に、そういう言葉をもらったんですよね、応援してくださってる方から。その言葉をもらったことで、自分には目標があるんだと思うようになった。そうした言葉を口にすることで、自分の一番つらかった時期を思い出せるし、それを思えばまた頑張れる。結局、夢や目標があったからここまで頑張れたんだと思います。

高岡さんの座右の銘「夢見ることはできること」と書かれた 高岡さん直筆のサイン色紙を一名にプレゼント

応募はハガキに住所・氏名・年齢・ご職業・連絡先(電話番号)を明記し、
〒160-0022
東京都新宿区新宿1-11-12 岩下ビル3階
株式会社 H14
「青梅マラソン公式HP運営事務局」高岡寿成コーチサイン色紙プレゼント係まで。
2010年2月28日消印有効。

問い合わせ先 TEL:03・5361・8015